新・じゃのめ見聞録  No.10

鉄砲を撃つ八重を「かっこいい」と思わせるところを考える

―戦争の映画・ドラマの効果の考察①―


2012.12.24


いよいよ新年度から大河ドラマ「八重の桜」がはじまるんだなと実感してきたのは、最近、宣伝用の予告編が放映され始めたのを目にしたからです。これはでも、気にもなる予告編でもあります。というのも、その予告編には、小さい女の子が「うちにも鉄砲の撃ち方をおしえてけろ」(ドラマでは会津弁で言っているので、これでは間違った表現をしていると思いますのでお許しを)と何度も頼むシーンが描かれているからです。ダイジェストなので、そういうシーンばかりを切り取って繋いでいると思われるので、あまりその場面だけにこだわるのは良くないとは思うのですが、そういうダイジェストは見ていて異様に感じます。小さい女の子が、目をきらきらさせて鉄砲の撃ち方に興味を持ち、女はそんなことをしなくてもいいと、突っぱねられながらも、何度も何度も頼み込んで、ようやく鉄砲の撃ち方を教わるという光景は、なぜか見ていて気味が悪いのです。予告編では、小さな女の子は、成人した綾瀬はるかさんになり、鉄砲を撃つ娘にかわってゆきます。

なぜ、そういうダイジェストに気味悪さを感じるのかというと、人を殺すための鉄砲に、どうしてそんなに小さいときから興味を持つのか、感覚的に納得がゆかないからです。17歳年の離れた兄、覚馬が、弟子の侍たちに伝授する様子を見て育ち、自分にも教えてもらいたいと思うようになっていったというのが、短いダイジェストから読み取れる筋書きですが、それにしても、「銃の撃ち方を習いたがる娘」という設定が、どうしてもうまく理解できないのです。それはダイジェストではなく、本番のドラマを見続けていったらわかるようになるということなのか、そもそも、そんなことに疑問を持つ村瀬の感覚に、「女はそんなことをするもんじゃない」という古くさい男の論理があって、「八重の桜」というドラマは、まさにそんな古くさい男の論理を打ち砕く女の姿を描くことになる、画期的なドラマなんだから、よく心して見てゆきなさいということなのか・・・。

 私は、男だからとか、女だからとかいうのではなく、子どもが銃の撃ち方を習っている場面を見るのは、気持ち悪いし不幸なことだと感じます。とくに「少年兵」を取材したNHK「BSドキュメンタリー」を長年にわたって見てきているものですから、アフリカや南米や東南アジアで、「少年兵」として訓練させられている子どもたちの実体をつい思い浮かべてしまいます。小さい頃から銃で人を撃つことを教わって育つ子どもたちの未来は不幸なものばかりです。その銃の恐怖心をなくすために子どもたちは麻薬を使い、廃人のようになってゆくものもたくさんいるからです。
しかし、そんな銃を撃つことを教わった八重を、「男と同等に戦うことを学んだ日本で最初の女性」だと持ち上げる八重本もあるのですが、そんな評価の仕方は、女性の評価の仕方を間違えている、と私には思えてなりません。このことについては、回を改めて何度も考察を重ねてゆきたいと思います。

今回は1回目の考察として「女性が銃を取る」ことの受け止められ方のいくつかを紹介しておきます。

 私の記憶に残っているテレビドラマに『アニーよ銃を取れ』というのがありました。アメリカから輸入されたドラマで、1950年代の作品です。これは男以上に射撃のうまい女性アニーのドラマでした。当時は「ララミー牧場」とか「ローハイド」とか「拳銃無宿」とか、西部劇まっさかりの拳銃ドラマがアメリカから輸入されていました。その大半は男のガンマンでしたが、この「アニーよ銃を取れ」は、男勝りの凄腕の拳銃使いだったので、子ども心に私も「かっこいい」と思って見ていたと思います。

 私の次に記憶に残っているのは、当然ながら『エイリアン』1979です。この映画の主人公リピリーを演じるシガニー・ウィーヴァーは、次々に倒される男たちに負けず、最後の一人になるまでエイリアンと壮絶な戦いを繰り広げます。「戦う女」のすごさをこれほど見せつける映画は他になかったように思います。

 『アニーよ銃を取れ』も『エイリアン』も見ていて「かっこいい」と思えたのは、やはり銃を撃つ相手がはっきりと「悪いやつ」とわかっていたからです。悪いやつをやっつけるために銃を撃つ、という設定。これはとてもわかりやすく「かっこいい」と感じられるものです。

 しかし、銃で撃ち殺してもいいほどの「悪い奴ら」がいる、という設定は、いつのまにかネタが尽きてしまいます。現実の「相手」は、一方的に「殺してもいいやつ」というふうに決めつけることが出来ないからです。だから、かつての西部劇の時代のように、単純に「悪い奴ら」を銃で撃つ映画やドラマは、制作できなくなり、だんだんと「銃で撃つ」相手を、人間から宇宙人へ、ゾンビや、吸血鬼や、怪獣のようなものへとすり替えていって、映画作りをしてきています。そういう「やつら」ならいくら銃で撃り殺してもいいし、見ていてスカッとするのも間違いないからです。そして、そういう映画で「銃を撃つ姿」は「かっこいい」と思わせるものがいっぱいありました。

ここに映画の問題、とくに戦争映画の問題、つまり「銃で敵を撃ち殺す場面を映画を使ってみせる」ことの問題がでてきます。そこに「銃を扱うこと」を「かっこいい」と思わせる場面がいろいろと工夫されることになっているからです。そして「八重の桜」にも、そういうふうに描かれしまい、「銃を撃つ八重」をみて「アニーよ銃を取れ」を見るように「かっこいいなあ」と見てしまう視聴者が出てくるのかどうか、来年は注視して見て行きたいと私は思っています。なぜなら、明治の時代の鉄砲に向こうには、「エイリアン」ではなく「人間」がいたからです。しかし、その「人間」を撃つには、自分の中で「悪い奴ら」だから撃つのだという心構えがなければなりません。そこのところをNHKのドラマがどういうふうに描いているのか注目したいと思います。

最後に、八重が銃の撃ち方を習うことへの別な見方を紹介しておきます。
 それは、たとえば子どもたちが小さい頃から「空手」を習ったりするようなことを考えてみる場合です。そういう「空手」の習得は、いわば人を殺す技を習うことになっているのですが認められています。そういうことを考えると、八重が銃の撃ち方を習いたいというのも、おかしなことではないのではないかと考えることもできます。さらに言えば、オリンピックには「射撃」や「フェンシング」といった武器を使った競技も認められているわけですから、女子が娘時代から「射撃」のクラブに入って練習することはなにもおかしなことではなく、八重の銃の撃ち方を習いたいという動機も、そのように見てみたら何ら問題にはならないのではないか、と考えることもできます。むしろ、オリンピックに出るためには、子ども時代から「射撃」の訓練をすることがあってもいいのではないかと。
 
もう一つ、別な見方は、人間も動物であり、狩りをして獲物を捕る本能を持っているし、また持っていなくてはならないと、考えるところにあります。動物は、自分の身は自分で守り、自分の食べものは自分で獲るという訓練を、早い時期に親から教えられ、身に着ける訓練をしています。それは人間も同じ事で、人間だって自分の身は自分で守り、自分の食べものは自分で獲るという訓練ができていないと生きてゆくことは出来ないはずではないか。しかし現代では、そういうふうに「戦い獲る」ことを教えなくなってきているし、とくに女性に対しては男の後ろにいて「戦わないで生きる」ことを教え続けてきたのではないか。そういう意味では、「戦う女性」を描くことになったNHK大河ドラマ「八重の桜」は、多くの女性に見て欲しいものになっているはずだと・・と考える見方もあり得るということです。